ゆでガエルはゆだりながら日記

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西洋近代美術(主に絵画)の歴史⑤19世紀その2(2回目)

こんにちは。

 

マネ(承前)

前回の続きです。

 

②「オランピア

この作品も,ティツィアーノ作品をお手本にしていることは明らかです。しかし,前回お話したのと同じ理由で,この作品も「おげれつ」とされます。

つまり,女性がミュールをはいていたり,奥の黒人女性が明らかに召使であったり,というのが「リアルすぎる」と思われたわけです。

ただ,この「オランピア」の女性も,「草上の昼食」の女性も,男を誘うような表情ではありません。吹き出しをつければ「別に・・・」とか言っていそうです。

でも,あからさますぎて当時の世間では受け入れられなかったんですね,これも,21世紀の今で考えれば,夜のお店のおねいさんの写真を「アート」として見せられたような感覚,というようなもんなんでしょうか。

 

ちなみに,マネの作品が世の人たちをぎょっとさせたのは,何も画題だけではありません。これまでに絵画は,非常に繊細なタッチで重ね塗りを繰り返しながら描かれるか,あるいは非常に力強いタッチで劇的な印象を与えるか,雑な言い方ですがその2通りです。

しかしマネは「べたっ」と描いた。この「べた塗り」が与える色彩の印象が,当時の人々にとっては違和感をおぼえる(簡単に言えば,キモい)ものであったようです。

 

・モネ

当時のフランスでも「紛らわしい」と言われたマネとモネ(アルファベットでも1字違い)。

マネはマネでいろんな作品があるわけですが,「印象派」としてのマネに関して言えば,先述の「印象・日の出」をはじめとしつつ,とりわけ晩年の「睡蓮」の連作がシロート的には知られているのではないでしょうか。最近も上野の西洋美術館で「幻の『睡蓮』」が修復士たちとAIの力で復活されたということで展覧会が開かれていましたし,そもそも西洋美術館の常設展では松方コレクションの一つとしての「睡蓮」を見ることができます。

このようなモネの連作に大きくかかわったのが,「チューブ入りの絵の具」であったことはよく知られています。それまで画家は,アトリエつまり室内にてパレットの上に色を作り,それをカンバスにおいていたわけですが,今我々が知るような絵の具が登場することによって,室外にイーゼルをもって言ってその場で描くということが可能になったのです。

この革新は,描く対象が画家(モネ自身)に対して瞬間瞬間に見せる「印象」を描くことにこだわるモネにとってうってつけでした。

「睡蓮」の数々を見ても,水面に反射する光,水面下の水の揺蕩い,池に差し込む日差しの加減といった情景からモネが感じたものが描かれている,と言ったらかっこよすぎでしょうか。

ただ,まんざら気負いすぎた表現というわけでもないと思うのです。それまでの絵画は,「何を」描くのかが中心でした。しかし,印象派以降は,「誰が」描いたのか,画家の感性がそのまま前面に出てくるようになったのですから。

そういった意味では,マネおよびモネの創作活動は,絵描きという存在そのもののありようを変えた,といえるのかもしれません。

 

(余談)ジャポニスム

19世紀の半ばといえば,日本も開国と維新を迎えようとするご時世です。ヨーロッパにも日本製の陶磁器が渡ってきたりしますが,その包み紙なり緩衝材として使われた反故紙ににわかに注目が集まりました。浮世絵です。

おりしも,ヨーロッパ世界の(政治的,あるいは意識の面での)拡大に伴い,オリエンタリズムとのちに呼ばれる感覚も広まっていました。

ただ,日本の美術がヨーロッパに影響を与えたのは単なる異国情緒というにとどまりません。

言われてみればなるほどと思うのですが,大和絵だのなんだのといった日本の絵画には,遠近感というものがない,したがって非常に平板というか,平面的な画面になっているのですね。そこがヨーロッパ人にとって斬新だった。

また,葛飾北斎のような天才の存在も重要です。「富嶽三十六景」の「神奈川沖浪裏」に代表されるような,大胆かつ印象的な構図。「凱風快晴」において,朝日が山肌にあたっていく様を絶妙なグラデーションで表現する色使い,こういったがそれまでの西洋絵画の「常識」をひっくり返すことになるんですね。

そんなわけで,マネがインチキなニッポン的なものをわざわざ描いてみたり,ゴッホが広重の絵を模写してみたり,クリムトに至ってはわざわざ(ふつうはタブーである)金色を用いて日本絵画の装飾性まで吸収してみたり,ということが起こってくるわけです。

本題ではないので,ここらへんにしておきますが。

 

なんだか気が付いたらほどほどの分量になってしまいました。

ここいらで区切りましょう。

では。