ゆでガエルはゆだりながら日記

ゆだりきったら左様なら。

「知れる」の違和感

人と話していたり、TVやラジオでの言葉を聞いていて、なんとなく気になることがあります。

たとえば、ここでの本題ではないですが、数年来気になっているのが、「~と思っていて…」という語句を使って延々と話を続けるというもの。

「~だと思っています。だから(しかし)~」とすれば、一つ一つの文章の意味がクリアになって伝わりやすいのではないかと思うのですが、こういう言い方をする人って結構多いんですね。しかも評論家だとか学者といった「学のある」」人にも割合いたりします。考えながらしゃべっているからそのような言葉遣いになるのかもしれないのですが、聞いているこちら側からすると「結論を探しながら話しているのかな」という印象を受けます(個人的な感想ですが)。

 

で、ここで話題にしたいのが、やはり近年よく聞く「知れる」という言葉遣いについてです。

もちろん、意味合いとしては「知ることができる」という言い方の言いかえなのですが、文法的にこれってどう考えたらいいのか、不思議に思うのですね。

「れる・られる」という助動詞の意味は、「可能」「自発」「受身」「尊敬」といったところ。その意味で「知れる」の「れる」は「可能」の意味にしか受け取れないように思います。というより、「知られる」とした場合には「受身」の意味が強くなるように感じるので、「可能」の意味合いで用いるならば「知れる」としたほうが伝わりやすいのかもしれません。けれど、どうも「ら抜き言葉」のように感じられて、少なくとも大人の言葉遣いにはそぐわないように思うのです。

ちなみに、私は「ら抜き言葉」に対して目くじらを立てる人間ではありません。「食べられる」を「食べれる」と言ったとしても、日常会話であれば別に良いように思います。「知れる」も同様です。しかし、先の評論家や学者のような人も公のコメントで「知れる」を使うことがままあるのですね。

じゃあお前はどんな言葉遣いがスマートだというのかと言われれば、当然「知ることができる」が良いのではないかと。しちめんどくさい表現かと思われるでしょうが、この言い方なら「可能」の意味であることは明確ですし、くだけた表現でもないと思います。

このブログをご覧になる(ごくわずかな)方々は、大学の推薦入試の論文についての過去記事を目指してこられる方がほぼ全てなのですが、高校生の作文・論文でも、この「知れる」は散見されます。私の個人的な意見ですが、中高生が現代日本語の文法についてきちんと学ぶ機会というのはわずかであるか、あるいは重視されないことも関係しているのかもしれません。大げさな言い方かもしれませんが、同世代の日本語ネイティヴ同士の日常会話であれば、当然コミュニケーションは成立するでしょう。しかし、若い人々にも大人の言葉遣いを身につけてもらいたい、そんなときに当の大人がいい加減な言葉遣いをしているのはいかがなものかとむくれているわけです。

 

めんどいことを言っていると思うでしょ。その通り。