ゆでガエルはゆだりながら日記

ゆだりきったら左様なら。

萩原先生を偲ぶ

そろそろ2か月経とうとしているのか。

今年の4月3日,日本におけるサンボ(ロシアの格闘技)の指導を通じて同競技の普及にあたられていた萩原幸之助先生が亡くなられた。

「知る人ぞ知る」人かもしれないが,「ゴング」や「月刊秘伝」などの格闘ジャーナリズムがネットに記事を挙げてくれているので,先生に関する概要についてはそのような記事をご参照いただきたい。

 

最初に先生の訃報に触れた時,正直驚いた。先生は私の10個上の55歳,もちろんまだまだお若い方である。

先生に関しては,いわゆる「アクの強い」人物であられたので,ネット上では先生のことを揶揄(にとどまらない場合もある)するようなコメントもあるが,私自身にとっては先生にかわいがっていただいた思い出が強い。

そこで,先生のことを偲ぶ意味合いで,個人的な思い出を残しておきたいと思う。多分このブログを読む人もまずいないだろうし。

 

私が初めて先生の姿を目にしたのは,中学校時代の始業式であった。その年,先生は母校の教師として我々の前に登場した。1学期の始業式では,大体どの学校でもそうだと思うけれど,新任教師の紹介が行われる。大抵は,新任教師の名前と簡単な経歴(学歴とか)がアナウンスされた後,各人が「よろしくお願いします」とか「精一杯頑張ります」とか,無難な挨拶をするわけだが,先生の場合には一味も二味も違った。先生の挨拶はただ一言,ド迫力の声で

「今を生きる!!!」

というものだった。

もちろん,我々の頭の中では「!」と「?」がいっぱいになったのは言うまでもない。

 

基本的には先生は柔道の先生として,中学時代の我々とかかわることはなかった。ただ,中学3年の体育祭に際して,先生が登場してきた。体育祭では学年の出し物が必ずあり,私が中1の時の体育祭では担当の先生のたっての希望で花笠音頭をやらされた。私は小学生の時にも花笠音頭をやっており,また中学でもやるのかとうんざりしていて,次の体育祭(そのころは体育祭と文化祭が1年おきに行われていたので,「次」は中学3年の時)では何をやるのかなと思いながら当時の中3の先輩方を見ていたら,組体操をやっていた。これならいいと思っていたら,2年後,自分が中3の時の体育祭では突然演目が「エッサッサ」と発表された。我々の学年の体育の担当が若手の日体大出の先生だったからだろう。エッサッサなんてそれまで聞いたこともなかったが,いざ体育の授業で指導が始まると,私は愕然とした。ご存じのように,エッサッサとは上半身裸になって腕を交互に絞り出すという男子専用の演目であるが,あれは日体大の筋肉もりもりの人々がやるから見栄えがするのだ。私は特に運動をやっているわけではないヒョロヒョロのからだなので,みっともないったらありゃしない。中には鍛えている奴もいたけれど,ほかにもぶよぶよわがままボデーの奴とか,私以上にひょろっこいのだらけである。その時にエッサッサの指導に当たったのが先生であった。しかも体育祭当日,先生はかなり調子に乗った姿で登場した。どういうわけだか,女性用の水着に水泳帽とゴーグルを着用して,我々の前でエッサッサをするのである(なお,先生の後ろでは英国紳士のような当時の学園長先生が見ておられた)。教師に対して特にうるさいことが言われない時分のゆるーい男子校だったとはいえ,あれはないと思った。

 

その後,先生に直接接するようになったのは,確か高校2年のころだったと思うけれど,体育の担当として我々の指導に当たるようになってからだ。教員になってからの先生は現役の選手としては活動していなかったと思うが,それでもトレーニングは続けていただろうし,だからよく言われるように,先生の首周りは尋常ではなかった。我々は先生に関して「首がない」と言っていたのだが,要は頭から肩にかけての部分がシームレスになっていて(シルエットとしては,頭から首にかけてが富士山状になっている),どう考えても並の人には見えなかった。実際そうなんだけれど。

体育の先生としては,どこかでどなたかもコメントしているけれど,サッカーの授業の際に一応手本としてシュートを打ったときのそのキックがどう見ても「ボールを蹴る」様子ではなく,「何かの攻撃」にしか見えない,なんてことがあった。雨で外の授業がつぶれた時にはご自分が現役時代のサンボの試合のビデオを見せてくださったこともあった。しばらく組み付いていた後,瞬間的に先生が相手の片腕に組み付くと,直後に相手のサンボ着(柔道着みたいなもの)の袖が破れていて,相手は方が脱臼しているというなかなかすさまじいものだった。普通,柔道着って破れない。

先生は黙っているとなんだかいかついように見えるけれど,かなりおちゃめなところがあって,ある時,休み時間に私の教室に先生がやってきて,本棚に雑誌を2冊入れた。ご自分が表紙を飾る「格闘技通信」で,こちらが聞いてもいないのに「どうだ,すごいだろ」と自慢されていた。ほかには特に用事はないようだった。

 

私が大学を卒業して,母校の教師として戻るようになってからは,「同僚(正確には先輩の先生だけど)」として接しさせていただくようになった。だから,ときどき一緒に酒を飲むようなこともあった。当時,春に行われていた歓送迎会では体育科の先生が宴会要員として何かしらの余興をやることになっていたが,その年の先生の出し物は,「黄桜ドン」。先述の女性用水着を着た先生が,酒を入れたコップを口に咥え(だから手ぶらになる),「きーざくらー,ドン」の掛け声で酒を飲み干すという,D通とかでは今でも行われているのかもしれないが,まあそういった芸である。

差しで飲むことはまずなく,大抵は私が生徒の時分にお世話になったM先生と一緒だったことが多かった気がする。特に思い出深いのは,ある年の大みそかに水道橋のスポーツバーで飲んだ時のことだ。ここは先生の格闘技関係の先輩が経営されていたというお店で,大きなスクリーンが3つあって,そこにK-1とプライドとハッスルがそれぞれ映し出されていた。それを見ながら飲むわけだけれど,途中画面を見ながら萩原先生がM先生にサブミッションの解説をされる。専門家の解説だからいちいち納得する,それはいいとして,困るのが私の腕を使いながら実演されたことである。ちゃんと極まっているので,それは痛い。一見大したことのないように見える体勢でも,痛いツボをしっかりと押さえ込んでいるので,先生は力を入れていない(本気でやられたら〇されるし,犯罪である)にもかかわらず,こちらは動けないし「痛い痛い痛い…」と泣くしかなかった。今となっては楽しい思い出である。

 

酒の席などでお話をさせていただいたりするときに,先生にまつわる伝説について聞いてみたことがあった。何しろ規格外の方なので,ちょっと常識では考えられない伝説が伝えられていたりしたのである。ここで書ける範囲で紹介すると,

・高校生の時,教室の後ろにベンチプレスのマシンを置いていて,休み時間にトレーニングしていた。

・同じく休み時間の時,机に突っ伏しているようだったので,授業担当の先生が寝ているのかと思ったら,空気イスをしながらダンベルトレーニングをしていた。

・マンホールのふたでフリスビーをしたことがある。

ほかにもいくつか伝説を聞いたことがあるが,これ以上は触れない。そして,上記のことは,概ね真実であったようである(少なくともベンチプレスの話は,同期の先輩からも確認が取れている)。

 

のちに学園の体制が変わってからは,ベテランの先生が次々にお辞めになることが多くなり,当時の先生はまだベテランというには若かったけれど,その性格ゆえにある偉い先生とは折り合いが悪く,目をつけられた挙句,先生も学園を去られた。その後先生は東南アジアで格闘術を指導したり,専門学校や公立高校に身を置いたりしていたようである。そんな中でも先生は徳之島でダイビングをしたり,祭りで神輿を担いだり,新宿のしょん〇ん横町のコアな店ですっぽんの生き血を飲んだりといった先生らしい活動をされていたみたいで,その様子は先生のブログに随時アップされていたけれど,今ではそのブログも閉鎖されてしまったようだ。

 

「靭術」なる護身術を編み出したのも,このころである。先生は柳生なんとか流の老師について骨法(?)を学び,活殺自在の域に達しておられた。筋肉と骨をつなぐ筋を引っ張って体の不具合を整える「筋引き」という技術を身につけられ,時折施術をされてもいたようだ。もっとも,「筋引き」を経験された先ほどのM先生によればすごく痛いらしい。その代わり,なかなか肩から上に上がらなかった腕が上がるようになったそうだ。靭術その他の護身術の指導に関してはyoutubeにある。心無いコメントもあるが,関節技を理屈で説明する先生の指導は,個人的にはわかりやすいと思う。

 

最後に先生をお見かけしたのは3年ほど前,学園の記念式典に卒業生としてお見えになったときである。そのころは私も子供ができたりして先生と酒を酌み交わすこともなく,他方で風のうわさにレバーがお悪いという話を聞いたりしていた。ただ,その日の先生はお元気な様子で,私はひどく忙しい受付の仕事のせいでほとんどお話ができなかったけれど,二言三言声をかけていただいたりした。

 

この4月,年度が替わってすぐの訃報。私自身も個人的に身動きがしづらい中で,ショックであった。M先生がおっしゃるに,「太く短い人生」。その通りだと思う。そして今振り返ってみて,萩原先生はあの言葉,「今を生きる」を貫かれた人生だったといえるだろう。

 

ここに謹んで,おちゃめで読書家で優れた格闘家,萩原幸之助先生のご冥福をお祈りする。