ゆでガエルはゆだりながら日記

ゆだりきったら左様なら。

ハリウッドの老人力

ハリソン・フォードインディ・ジョーンズの新作に出ている。

調べてみればもう80歳とのこと。

過去の人とまではいわないが、007みたいに世代交代しないのが不思議である。

 

それにしても、元気なハリウッド俳優もいるものだ。

83歳のアル・パチーノ、79歳のロバート・デ・ニーロなど、最近パパになった人もいるから驚きだ。

ブルース・ウィリスは引退したけれど、まだまだ元気な老人もいるものだ。

 

しかし、よろよろのインディを見て、楽しいのだろうか。ショーン・コネリーですら、もっと若かっただろうに。

負けない人。

先日、知人がインスタライブを始めたという通知があったので、なんとなく見てみた。

ところがホストは知人ではなく、その知り合いの人で、そんなところに入るのも場違いな気がしたけれど、しばらく見てみることにした。その人はモデル、それもご本人曰く「ぽっちゃりモデル」というものをやってらっしゃるという女性(確かに骨太な感じのスタイルである)で、現在ミラノでのショーの出演を目指してオーディションに臨んでおられるとのこと。ただ私は熱心なファンというわけではないのでここではその人の名前を出すことは控えておく。そこでここではYさんとしておく。

ライブを見終わった後、Yさんがご自身の経歴をまとめた動画を見てみたら、なんともまあ波乱万丈の人生を歩んでこられたらしい。親からの虐待、20歳になったころに遭難した交通事故、そしてそのときのけがの傷跡が残ってしまっていること、そんなことを話しておられた。もともと地元は地方の方なのだが、30歳を過ぎて上京して、いまやっと自分の満足のいく人生を歩めるようになったとのこと。そして、今では足に傷の残った自分自身をありのままに受け入れて、モデルとして挑戦を続けておられている。当面は、彼女の先輩も歩いたミラノのランウェイを自分で歩くことが夢なのだそうだ。

 

夢などという言葉は、個人的には面映ゆくて苦手な言葉である。臆面もなく自分の夢を語る人というのは、ひねくれた性格の私からしてみると(悪い意味で)純粋すぎるように感じられる。ただ、Yさんに関しては、私だったらつぶれてしまうような環境を乗り越えて自分の目標に向かっておられる。正直、尊敬である。

 

今現在の自分を振り返るに、なんだかくすぶっている状態が続いているが、少しでも見習いたいものだ、と思ったこの数日である。

ここ数年のTBSラジオ。

昔から、ラジオといえばTBSだ。

人によっても違うのかもしれないけれど、家や職場でラジオをかけている場合、あんまりいろんな局を行ったり来たりすることはないのではないか。テレビと違ってダイヤルを合わせる手間を考えると基本的に固定になりやすい気がする(今どきはプリセットチャンネルの設定ができるのもあるけれど)。

朝一番からかけているから、各番組のコーナーを聞いていれば、時計を見なくても大体何時かはわかるくらいだ。朝、テレビを見ている人も多いと思うが、視線を奪われないから朝の身支度に影響がなくて済むのが便利だと思っている。

 

休日も、個人的にあまりテレビを見なくなっているから、ラジオを聴いている。そんなわけで、ここ数年のTBSラジオの変わりっぷりが気になってしょうがないのである。

まず、致し方ない理由があるとはいえ、お気に入りの長寿番組のいくつかがなくなった。

荒川強啓デイキャッチ(平日午後)

永六輔の土曜ワイドラジオTOKYO・永六輔、その新世界(土曜の午前中)

大沢悠里のゆうゆうワイド(平日朝~昼)

伊集院光とらじおと。(平日朝~昼)

久米宏ラジオなんですけど(土曜の午後)

赤江珠緒たまむすび(平日午後)

 

荒川強啓の番組は、一説によれば辛辣な政権批判がたたって打ち切りとなった、という風にも聞く。現在では荻上チキの夜のニュース番組が昼に移ってきて報道をやっている。

永六輔に関しては、ご本人がなくなられてしまったからしょうがない。晩年はパーキンソン病に悩まされたのは周知のとおりで、そのせいなのかわからないけれど番組中にも涙ぐんでしまう場面がままあった。その際の外山惠理のなぐさめるような、はげますような対応は今思い出しても素晴らしいものだったと思う。後番組はナイツが受け持っている。

大沢悠里の番組も、大沢が高齢を理由に毎朝の出演から身を引いたことで幕となった。もっとも大沢悠里自体はラジオに対する意欲を依然強く持っており、毒蝮三太夫と一緒んポッドキャスト番組(大沢悠里のGG放談)を始めている。後継は伊集院光

久米宏の番組に関しても、高齢を理由としたものだった。最終回にはゲストに伊集院光が呼ばれていたが、ラジオに信念をもって取り組んできた両者の話だけに、なんだかぐっと来た思い出がある。後継はバービーの番組だったが、これも2022年3月で終了となっている。

赤江珠緒のたまむすびも、10年続いたロングラン番組となった。番組10周年を記念して武道館で行われたライブイベントも大盛況となるなど、人気番組であったし個人的にも平日の休みの日には楽しみにしていたのだが、赤江の「育児に専念したい」という希望から2023年3月で終了。4月からは石山蓮華という人の「こねくと」という番組が始まっている。

 

さて、こうしてみてみると、それぞれの番組が終了した理由はたいてい筋の通ったものに見える。伊集院光の番組以外は。伊集院光も、大沢悠里の後を受けるということで並々ならぬ思いをもって番組受けたのだろうと思うが、突然降ってわいたパワハラ疑惑のせいで、番組を降板する決断をすることになった。おちゃらけるところはおちゃらけるけれど、ニュースのコーナーでは伊集院なりの冷静なコメントを述べるなど、バランスの取れた優れた番組だったと思うだけに終了はいまだに悔やまれる。なお、後継にはパンサー向井の「ふらっと」という番組が始まっているが、スタートから1年以上経つけれどいまだに慣れない。

文春あたりが伝えるところによると、伊集院の番組が終わった理由はTBSラジオの現体制にもあるということである。今の社長はJ-WAVEから移ってきた人で、この人が社長になってから、TBSラジオでは野球中継をやめたり、聴取率週間をやめたり、それまでラジオ放送では当たり前のことを改めるなど、やり手の社長のようである。が、番組編成に関しても新しいリスナー獲得のためか、それまでのAMらしい雰囲気を変えているような節がある。伊集院とはそりが合わなかったとしても無理はない気がする。

 

大沢悠里とか毒蝮三太夫とか、80過ぎの人々に頼り続けるわけにもいかないのだろうけど、耳慣れた、うるさすぎないラジオからは遠ざかろうとしているTBSラジオ久米宏の番組が終わってからの土曜午後なぞはなかなか厳しいものがある。数少ない希望は朝の生島ヒロシ森本毅郎くらいか。

おじさんのぼやきである。

 

※なお、そんな中で聞く人間を選ぶような渋い番組もある。「東京閾値(しきいち)」という日曜夕方の番組で、ディレクターのような人が東京のコアな部分に長けている人にインタビューする内容である。初回は玉袋筋太郎が語る昔の新宿、次に外山惠理の振り返る向島の風景、さらにはなぎら健壱の「下町」定義談義など、派手さはないが滋味あふれるような回があったりしたが、一方である時にはこのディレクターが大井町界隈をうろうろするだけの回など、だれが面白がるのか不思議な時もあった。しかもこのディレクターの声がなんとなく地味なので、先日は玉ノ井親方(元・栃東)にかつての薄暗い西新井について聞く回だったのだが、内容も相まって深夜放送のようにも聞こえた。それにしても西新井と足立区のディープゾーンなんて、普通ラジオのネタにはならないところを取り上げるあたりがこの番組の魅力である。いつまで続くのかわからないコアな番組、聴くなら今しかないだろう。

 

 

「知れる」の違和感

人と話していたり、TVやラジオでの言葉を聞いていて、なんとなく気になることがあります。

たとえば、ここでの本題ではないですが、数年来気になっているのが、「~と思っていて…」という語句を使って延々と話を続けるというもの。

「~だと思っています。だから(しかし)~」とすれば、一つ一つの文章の意味がクリアになって伝わりやすいのではないかと思うのですが、こういう言い方をする人って結構多いんですね。しかも評論家だとか学者といった「学のある」」人にも割合いたりします。考えながらしゃべっているからそのような言葉遣いになるのかもしれないのですが、聞いているこちら側からすると「結論を探しながら話しているのかな」という印象を受けます(個人的な感想ですが)。

 

で、ここで話題にしたいのが、やはり近年よく聞く「知れる」という言葉遣いについてです。

もちろん、意味合いとしては「知ることができる」という言い方の言いかえなのですが、文法的にこれってどう考えたらいいのか、不思議に思うのですね。

「れる・られる」という助動詞の意味は、「可能」「自発」「受身」「尊敬」といったところ。その意味で「知れる」の「れる」は「可能」の意味にしか受け取れないように思います。というより、「知られる」とした場合には「受身」の意味が強くなるように感じるので、「可能」の意味合いで用いるならば「知れる」としたほうが伝わりやすいのかもしれません。けれど、どうも「ら抜き言葉」のように感じられて、少なくとも大人の言葉遣いにはそぐわないように思うのです。

ちなみに、私は「ら抜き言葉」に対して目くじらを立てる人間ではありません。「食べられる」を「食べれる」と言ったとしても、日常会話であれば別に良いように思います。「知れる」も同様です。しかし、先の評論家や学者のような人も公のコメントで「知れる」を使うことがままあるのですね。

じゃあお前はどんな言葉遣いがスマートだというのかと言われれば、当然「知ることができる」が良いのではないかと。しちめんどくさい表現かと思われるでしょうが、この言い方なら「可能」の意味であることは明確ですし、くだけた表現でもないと思います。

このブログをご覧になる(ごくわずかな)方々は、大学の推薦入試の論文についての過去記事を目指してこられる方がほぼ全てなのですが、高校生の作文・論文でも、この「知れる」は散見されます。私の個人的な意見ですが、中高生が現代日本語の文法についてきちんと学ぶ機会というのはわずかであるか、あるいは重視されないことも関係しているのかもしれません。大げさな言い方かもしれませんが、同世代の日本語ネイティヴ同士の日常会話であれば、当然コミュニケーションは成立するでしょう。しかし、若い人々にも大人の言葉遣いを身につけてもらいたい、そんなときに当の大人がいい加減な言葉遣いをしているのはいかがなものかとむくれているわけです。

 

めんどいことを言っていると思うでしょ。その通り。

 

萩原先生を偲ぶ

そろそろ2か月経とうとしているのか。

今年の4月3日,日本におけるサンボ(ロシアの格闘技)の指導を通じて同競技の普及にあたられていた萩原幸之助先生が亡くなられた。

「知る人ぞ知る」人かもしれないが,「ゴング」や「月刊秘伝」などの格闘ジャーナリズムがネットに記事を挙げてくれているので,先生に関する概要についてはそのような記事をご参照いただきたい。

 

最初に先生の訃報に触れた時,正直驚いた。先生は私の10個上の55歳,もちろんまだまだお若い方である。

先生に関しては,いわゆる「アクの強い」人物であられたので,ネット上では先生のことを揶揄(にとどまらない場合もある)するようなコメントもあるが,私自身にとっては先生にかわいがっていただいた思い出が強い。

そこで,先生のことを偲ぶ意味合いで,個人的な思い出を残しておきたいと思う。多分このブログを読む人もまずいないだろうし。

 

私が初めて先生の姿を目にしたのは,中学校時代の始業式であった。その年,先生は母校の教師として我々の前に登場した。1学期の始業式では,大体どの学校でもそうだと思うけれど,新任教師の紹介が行われる。大抵は,新任教師の名前と簡単な経歴(学歴とか)がアナウンスされた後,各人が「よろしくお願いします」とか「精一杯頑張ります」とか,無難な挨拶をするわけだが,先生の場合には一味も二味も違った。先生の挨拶はただ一言,ド迫力の声で

「今を生きる!!!」

というものだった。

もちろん,我々の頭の中では「!」と「?」がいっぱいになったのは言うまでもない。

 

基本的には先生は柔道の先生として,中学時代の我々とかかわることはなかった。ただ,中学3年の体育祭に際して,先生が登場してきた。体育祭では学年の出し物が必ずあり,私が中1の時の体育祭では担当の先生のたっての希望で花笠音頭をやらされた。私は小学生の時にも花笠音頭をやっており,また中学でもやるのかとうんざりしていて,次の体育祭(そのころは体育祭と文化祭が1年おきに行われていたので,「次」は中学3年の時)では何をやるのかなと思いながら当時の中3の先輩方を見ていたら,組体操をやっていた。これならいいと思っていたら,2年後,自分が中3の時の体育祭では突然演目が「エッサッサ」と発表された。我々の学年の体育の担当が若手の日体大出の先生だったからだろう。エッサッサなんてそれまで聞いたこともなかったが,いざ体育の授業で指導が始まると,私は愕然とした。ご存じのように,エッサッサとは上半身裸になって腕を交互に絞り出すという男子専用の演目であるが,あれは日体大の筋肉もりもりの人々がやるから見栄えがするのだ。私は特に運動をやっているわけではないヒョロヒョロのからだなので,みっともないったらありゃしない。中には鍛えている奴もいたけれど,ほかにもぶよぶよわがままボデーの奴とか,私以上にひょろっこいのだらけである。その時にエッサッサの指導に当たったのが先生であった。しかも体育祭当日,先生はかなり調子に乗った姿で登場した。どういうわけだか,女性用の水着に水泳帽とゴーグルを着用して,我々の前でエッサッサをするのである(なお,先生の後ろでは英国紳士のような当時の学園長先生が見ておられた)。教師に対して特にうるさいことが言われない時分のゆるーい男子校だったとはいえ,あれはないと思った。

 

その後,先生に直接接するようになったのは,確か高校2年のころだったと思うけれど,体育の担当として我々の指導に当たるようになってからだ。教員になってからの先生は現役の選手としては活動していなかったと思うが,それでもトレーニングは続けていただろうし,だからよく言われるように,先生の首周りは尋常ではなかった。我々は先生に関して「首がない」と言っていたのだが,要は頭から肩にかけての部分がシームレスになっていて(シルエットとしては,頭から首にかけてが富士山状になっている),どう考えても並の人には見えなかった。実際そうなんだけれど。

体育の先生としては,どこかでどなたかもコメントしているけれど,サッカーの授業の際に一応手本としてシュートを打ったときのそのキックがどう見ても「ボールを蹴る」様子ではなく,「何かの攻撃」にしか見えない,なんてことがあった。雨で外の授業がつぶれた時にはご自分が現役時代のサンボの試合のビデオを見せてくださったこともあった。しばらく組み付いていた後,瞬間的に先生が相手の片腕に組み付くと,直後に相手のサンボ着(柔道着みたいなもの)の袖が破れていて,相手は方が脱臼しているというなかなかすさまじいものだった。普通,柔道着って破れない。

先生は黙っているとなんだかいかついように見えるけれど,かなりおちゃめなところがあって,ある時,休み時間に私の教室に先生がやってきて,本棚に雑誌を2冊入れた。ご自分が表紙を飾る「格闘技通信」で,こちらが聞いてもいないのに「どうだ,すごいだろ」と自慢されていた。ほかには特に用事はないようだった。

 

私が大学を卒業して,母校の教師として戻るようになってからは,「同僚(正確には先輩の先生だけど)」として接しさせていただくようになった。だから,ときどき一緒に酒を飲むようなこともあった。当時,春に行われていた歓送迎会では体育科の先生が宴会要員として何かしらの余興をやることになっていたが,その年の先生の出し物は,「黄桜ドン」。先述の女性用水着を着た先生が,酒を入れたコップを口に咥え(だから手ぶらになる),「きーざくらー,ドン」の掛け声で酒を飲み干すという,D通とかでは今でも行われているのかもしれないが,まあそういった芸である。

差しで飲むことはまずなく,大抵は私が生徒の時分にお世話になったM先生と一緒だったことが多かった気がする。特に思い出深いのは,ある年の大みそかに水道橋のスポーツバーで飲んだ時のことだ。ここは先生の格闘技関係の先輩が経営されていたというお店で,大きなスクリーンが3つあって,そこにK-1とプライドとハッスルがそれぞれ映し出されていた。それを見ながら飲むわけだけれど,途中画面を見ながら萩原先生がM先生にサブミッションの解説をされる。専門家の解説だからいちいち納得する,それはいいとして,困るのが私の腕を使いながら実演されたことである。ちゃんと極まっているので,それは痛い。一見大したことのないように見える体勢でも,痛いツボをしっかりと押さえ込んでいるので,先生は力を入れていない(本気でやられたら〇されるし,犯罪である)にもかかわらず,こちらは動けないし「痛い痛い痛い…」と泣くしかなかった。今となっては楽しい思い出である。

 

酒の席などでお話をさせていただいたりするときに,先生にまつわる伝説について聞いてみたことがあった。何しろ規格外の方なので,ちょっと常識では考えられない伝説が伝えられていたりしたのである。ここで書ける範囲で紹介すると,

・高校生の時,教室の後ろにベンチプレスのマシンを置いていて,休み時間にトレーニングしていた。

・同じく休み時間の時,机に突っ伏しているようだったので,授業担当の先生が寝ているのかと思ったら,空気イスをしながらダンベルトレーニングをしていた。

・マンホールのふたでフリスビーをしたことがある。

ほかにもいくつか伝説を聞いたことがあるが,これ以上は触れない。そして,上記のことは,概ね真実であったようである(少なくともベンチプレスの話は,同期の先輩からも確認が取れている)。

 

のちに学園の体制が変わってからは,ベテランの先生が次々にお辞めになることが多くなり,当時の先生はまだベテランというには若かったけれど,その性格ゆえにある偉い先生とは折り合いが悪く,目をつけられた挙句,先生も学園を去られた。その後先生は東南アジアで格闘術を指導したり,専門学校や公立高校に身を置いたりしていたようである。そんな中でも先生は徳之島でダイビングをしたり,祭りで神輿を担いだり,新宿のしょん〇ん横町のコアな店ですっぽんの生き血を飲んだりといった先生らしい活動をされていたみたいで,その様子は先生のブログに随時アップされていたけれど,今ではそのブログも閉鎖されてしまったようだ。

 

「靭術」なる護身術を編み出したのも,このころである。先生は柳生なんとか流の老師について骨法(?)を学び,活殺自在の域に達しておられた。筋肉と骨をつなぐ筋を引っ張って体の不具合を整える「筋引き」という技術を身につけられ,時折施術をされてもいたようだ。もっとも,「筋引き」を経験された先ほどのM先生によればすごく痛いらしい。その代わり,なかなか肩から上に上がらなかった腕が上がるようになったそうだ。靭術その他の護身術の指導に関してはyoutubeにある。心無いコメントもあるが,関節技を理屈で説明する先生の指導は,個人的にはわかりやすいと思う。

 

最後に先生をお見かけしたのは3年ほど前,学園の記念式典に卒業生としてお見えになったときである。そのころは私も子供ができたりして先生と酒を酌み交わすこともなく,他方で風のうわさにレバーがお悪いという話を聞いたりしていた。ただ,その日の先生はお元気な様子で,私はひどく忙しい受付の仕事のせいでほとんどお話ができなかったけれど,二言三言声をかけていただいたりした。

 

この4月,年度が替わってすぐの訃報。私自身も個人的に身動きがしづらい中で,ショックであった。M先生がおっしゃるに,「太く短い人生」。その通りだと思う。そして今振り返ってみて,萩原先生はあの言葉,「今を生きる」を貫かれた人生だったといえるだろう。

 

ここに謹んで,おちゃめで読書家で優れた格闘家,萩原幸之助先生のご冥福をお祈りする。

カリカリのカツカレー

こんにちは。ご無沙汰しております。

 

何かあったわけではなくて,ただ単純にサボっていただけなのです。

 

さて,今回は最近の昼飯について。

 

今年に入って午後は別の職場で働くようになり,それで昼飯も今までとは違うところで食べることが多くなったのですが,時期によってトレンドがありまして。

最近は,カツカレーが気になるのです。

 

それも,とんかつ定食にあるような分厚いとんかつではなくて,ラードで揚げたカリカリの衣の薄っぺらいカツの乗ったカツカレー。

 

こんなかんじです。

 

 

写真は上野にある「クラウンエース」のカツカレーです。駅前にある風情のあるカレーショップで,気になったことがある方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 

で,食べてみたら,見た目のシンプルさから言ったらびっくりしてしまうほどの深いお味。そこにカリカリのカツ。らっきょも食べ放題というのが今の御時世には珍しいですよね。

 

ここからしばらくカリカリカツのカレーに巡り合う旅に出ることになるのでした。

 

ではまた。

 

 

夜明けのまぼろし

こんにちは。

 

私,寝床に入るのが比較的早い人間なのですが,寝付きはよろしくなく,たいてい毎日布団の中でゴロゴロしているうちに,日付が変わった頃なんとなくうとうとし始めるという生活を,何十年となく送っております。

 

とはいえ朝起きる時間は変わらずで,しかも年を取るたびにだんだん朝が早くなってくるので,睡眠時間は減るばかり。

 

そんなわけで,寝ている間に夢を見る,ということはほとんどありません。

 

なのですが,ここ数日,やけにはっきりした夢を立て続けに見るのです。

 

①女房,子どもと,世田谷か川崎あたりから私鉄のようなものに乗って,途中下車しながらあちこちをぶらつく

②伊豆あたりの離島で職人的な人々と釣りをする

③(10数年前になくなった)祖父と高級ホテルのバーにいる・・・ちなみに祖父は全くの下戸です。

 

3日連続で夢を見るということは,これまでの人生でも経験のないことだと思います。

 

①山の手途中下車の旅

  最初に見たのがこいつです。そして一番具体的で奇妙な夢でした。

  ある日,かみさんが用事があってどこぞの土地に行こうと言い出し,私と娘もついていくことになりました。東急線のような電車に乗ってついたところは,多摩川の河川敷のようなところ。大きい駅で,割と高い高架の上にホームがあるようなところでした。

  その土地で何をしたのかはよく覚えていませんが,ともかく所用が済んで帰ろうということになり,渋谷方面の電車に乗り込みました。

  不思議だったのはここからで,真っ直ぐ帰るのかと思いきやあちこちの駅で女房子供が途中下車をします。私も慌てて電車を降りるのですが,2人は先にどこかに行ってしまって,私は土地勘のないところに取り残されてしまう。必死になって女房子供を探すのですが,例えばある駅では地下の改札口を降りるとすぐに,昭和じみた感じの,布団やら布切れやらを大量に並べている店の中に入ってしまう(川口周辺に詳しい方は,「ヤ○イチ」というお店の中に紛れ込んでしまったと思ってください)。店はロードサイドのドン・キホーテばりにむやみに大きく,その後どうにかこうにかして店そのものから出るのですが,地下の商店街みたいなものが先の方まで伸びていて,ここを抜けると今度は大森の駅前のようなモジャっとしたところに出てきてしまう。

 別の駅では,河川敷沿いの道を歩くことになるのですが,ある地点から透明度の高い疏水をたらい舟のようなものに乗ってすーっと下っていったり。水が綺麗で小魚も泳いでいて,ところどころで近所の子供も水遊びしています。たらい舟はなかなかの速度で進むので微妙におっかない気もしましたが,気持ちよくもあった。

 さらに次は,東京の古い町並みなんかでよくあるむやみに細い路地,これがくねくねと折れ曲がっているところに迷い込んでしまい,アップダウンもそこそこある路地をうろうろしていると古い石造りの建物にぶつかります。入り口はいくつかあるようで,私が入ったのは建物の2階にある入口,中にいる人に促されるままに上の階に上がると銭湯のような作りになっていて,とはいえまず目の前に広がるのが休憩室のような場所になっています。風呂場自体は薄暗くはあるのですが小綺麗で,それなりに気持ちよく風呂に浸かることができました(おそらく,しばらく前に訪れた長野・諏訪の「片倉館」のイメージがあるように思います),それは良いにしてもなぜに風呂に入っているのかは自分でもよくわかりません。

 風呂場の建物を出てからしばらくまた街をうろうろしてやっと駅にたどり着き,渋谷方面の電車に乗り込むことができてホッとします。ただ,最後まで不思議なのは,到着した駅が「渋谷イーストサイド」(実在のライブハウスではありません)なる駅で,どうもこれが私の住む方面への路線につながっている模様。当然「ウェストサイド駅」もあり,(うつらうつらの状態ではありますが)そっちに行ってはいけない意識は強くあったように思います。ともかく,その「渋谷イースト」から山手線的なものに乗って(その記憶はありませんが)帰ったようです。

  このあたりではっと目覚めて時計を見ると,いつもの起床時間。習慣というものは恐ろしいもんです。

 

 ②家の中の釣り堀

  気が付くと古民家のようなところにいます。家の真ん中の部分は床が張られておらず,生簀のような水場があるのですが,ただし正確には生簀ではなく,水場は表の海とつながっているようです。つまりはあまり大きくない家の真ん中部分が海とつながった釣り堀のようになっています。

  5~6人のおじさんが周りにいたでしょうか。水場に釣り糸を垂れてじっと睨んでいます。水は澄んでいて,あまり深くはないのですが底のほうまでよく見える,だから針に魚が食いつけばすぐにわかります。

  そんなところで私も釣りをしていたのでした。けれど,私はまともに釣りをしたことがなく,糸を針につけることもできないので,周りのおじさんに手伝ってもらいます。しかもへたくそなので,糸を投げ込む(後から考えれば狭い家なのでただ糸を垂らすだけのはずなのですが,寝ている間のことです,おかしいこともあります)際に,他の人の糸に絡まってしまって迷惑をかけたり。そんな針に魚が食いつくはずもなく,私としてはあまり面白くありません。

 そんなこんなのうちにおじさんたちが三々五々帰り支度を始めます。もうお開きかと思って私も帰り支度を始めると,外から船の汽笛が。どうも,この船に乗らないと帰れないようです。そんなときに限って,靴が見当たらない。ほかの人はもう家を出てしまっています。ということは私の靴だけが残っているはずなのですが,それがない。取り違えられたというわけでもない。私は非常に焦りました。結局,いつもはいているものではない靴が見つかり,それをはいて急いで船に乗り込んで一件落着なのですが,そもそもなんで釣りをしていたのか,何なのでしょう。

 

③帝国ホテル?のバーラウンジ

 マホガニーの調度が重厚な感じを醸し出す高級ホテルのバーにいます。周りにいるのはタキシード姿の紳士ばかり。私も(着たことがないのに)タキシードを着て,スコッチだか何だかをなめています。ここ,私は勝手に帝国ホテルだと思っているのですが,もちろん帝国ホテルのバーなど行ったことなどありません。

 不思議なことにこのバーの,入り口からフロアに至るまでの階段,むやみに段差があります。一段が大人の膝くらいまでの高さがあり,だから上り下りするのに「どっこいしょ」となります。なぜこんなエレガントからほど遠い設計なのかは謎ですが,ともかくフロアでグラスを傾けていると,ずいぶん前に亡くなった祖父が,やはりタキシードを着て(着るものにはこだわりのある祖父でしたが礼装なんて見たことない)この階段をえっちらおっちら降りてきます。私も驚いて迎えに行くのですが,さらに驚くのはフロアに降りるなりバーテンダーに洋酒をロックで注文するのですね。祖父は奈良漬けでも酔っぱらってしまう下戸なのですが,この日は服装も「親分」じみていて,長いマフラーなんか肩に羽織っていたりします。この後何をどうしたかは記憶にありませんが,夢の中でも祖父に出会えたのはなんだか幸せなことでした。

 

 オチはなく,こんなところで。