ゆでガエルはゆだりながら日記

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西洋近代美術(主に絵画)の歴史⑤19世紀その2(1回目)

こんにちは。

 

今回は19世紀の美術についてその2ということで,印象派の登場のあたりを綴ってみようと思います。

 

1.印象派の登場

マネ

印象派」の名前の由来はモネの「印象・日の出」から来ていることは皆さんご存知だと思いますが,モネに先立って,絵画の世界に一石を投じたのがマネです。

といってもマネは,奇抜な絵を描いて世間の耳目を集めようとしたのではなく,過去の傑作をお手本に,それを現代風に解釈しただけなのですが,その「解釈」の仕方が当時の人々には受け入れ難かったのですね。

 

具体的に見ていきましょう。

①「草上の昼食

この作品は,ティツィアーノ(当時はジョルジョーネの作とされていましたが)の「田園の奏楽」をモチーフにしたものとされています。マネの絵では,木陰で語り合う男たちがきちんとした服装をしているのに対し,手前にいてこっちを見ている女性は何も身に着けていません。このスタイル自体は,ティツィアーノの作品も同様です。しかし,ティツィアーノの作品はマルなのに対し,マネの作品はとんでもなく駄目だしされました。

何が違うのでしょうか。

問題は,それぞれの絵に描かれている女性が何者か,ということなんですね。

ティツィアーノの絵に描かれている女性たちの体には一応布切れのようなものがまとわりついていますが,「服」ではなさそうです。そんな女性がすぐ側にいるにも関わらず,男たちは彼女たちの存在に気づいていないように見えます。

対してマネの絵ではどうか。こちらでも男たちの目線は女性に向いてはいません。しかし,画面手前に,女性の服らしきものが捨て置かれています。つまり,この女性は「意図的に服を脱いだ状態で」男たちのそばにいるんですね。

このことから何が言えるのか。神様は,人間の目には見えません。ティツィアーノの絵の中の男たちが女性たちに気づいていないのはまさにそのためで,要はこの女性たちは「女神」なんですね。本来人間には見えていないはずの女神たちだから,服を着ていないんです。

一方でマネの絵の女性は,明らかに「人間」です。女性の衣服の存在がそのことを示しています。ということは,この絵は,どこぞの公園(?)で,男2人が裸の女性を前にしながら談笑している姿を描いたものということになります。

これがまずいんですね。そりゃそうでしょう。例えば代々木公園の片隅で,こんなグループがいたとしたら,間違いなくお縄です。

そんなわけでこの作品は当時のサロン(官展)で落選とされます。なお,この年(1863年)のサロンは非常に選考が厳しかったとされ,落選作も多くあったことから,ナポレオン3世は「落選展」を開きますが,やはりここでも物議をかもしてしまいます。

 

現代でも,例えば宮沢〇えの「あの」写真集(キシン・シ〇ヤマ撮影のあれ)が児童なんちゃらにあたるのかとかいう議論があったりしました,その時にも「絵画ならいい」というわかるようなわからないような理屈があったりして,決着はつかないですね。ともかく,少なくともこの絵は,当時においては「美しい」とみられるよりも「やらしい」ととられたようです。

 

ただ,これで話は終わりません。「草上の昼食」が落選した年のサロンで,優秀とされたカバネルの「ヴィーナスの誕生」。えーとですね,個人的には,こっちのほうがアレだと思うんですけれど…。でも,海の上に寝転がることができる人間はいないわけで,周りに天使もいるし,だからこの絵は「女神」を描いたことになっているんですね。

 

どうなんでしょう。

 

さて,ほんとうはこの部分を1回で終わらせるつもりだったのですが,つい筆が(指が?)滑ってしまって長くなりました。いったんここで区切りましょう。

 

続きます。