ステーキの思い出。
こんにちは。
桜の花が開いてきても,いつもの花見ができないこのご時世,いまいち盛り上がりませんね。
それはともかくとして,最近私,固まりの牛肉を食べる機会に恵まれておりません。
松本零士「男おいどん」に出てくる「タテだかヨコだかわからんステーキ」とまでは言いませんが,肉,食べたい。
それにしても,シンプルに言えば肉を切って焼くだけ(じゃないだろうけれど),の料理であるにもかかわらず,世の中にはいろんなタイプのステーキがありますよね。
もろもろ含めて5万円はかかる超予約困難なお店もあれば,「いきなり」なスタイルもあり。とりわけ「いきなり」的な安価スタイルのお店は感覚的に言えば昔に比べて猛烈に増えて,ステーキを食べられる機会はだいぶ多くなったように思います。
もちろん私の場合,そんなにステーキを食べる機会が多いわけでもありませんが,だからこそ気分も上がるというもの。そのせいか,「ハズレ」ということもまずない。
ただ,かつて「こんなまずいステーキがあるのか」という経験が一度ありました。そのお店,今はもうないのですが,系列のお店は別の場所にあるので,名前は控えます。ハワイアンなつくりのグリルレストランで,ロケーション的には東京ベイエリアの某ショッピングモール内のレストランで,テラス席では運河が見えるというところでした(われわれ家族3人で入店した際はテラスも空いているのに普通のボックス席でしたが)。
で,メニューを開くと,いろいろ美味しそうなものはあるものの,やはりグリル押しということなのでおすすめな感じのステーキを注文してみたのでした。たしか200gだったかな。
当然ここから「焼き加減は?」と聞かれます。
皆さんがお好みの焼き加減は,どれくらいのものでしょうか。
私の場合,肉のねっとりした舌触りも味わいたいので,レア,ないしはミディアムレアが好みです。同じようなご意見の方も多いのではないかと思います。
けれど,お店で焼き加減を聞かれる際には,基本的にお店にお任せします。料理人は料理人で,仕入れた肉の状態から,一番おいしい焼き加減というものを認識していると思うからです。素人だてらにあれこれ注文つけるよりも,プロにお任せしようと。
ちなみにこの時かみさんも同じものを注文しましたが,かみさんははっきりと「レアで」と頼んでいました。
あわせて頼んだエビかなんかをつまんで待つことしばらく。頼んだお肉がやってきました。旨そうです。
けれど,ナイフを入れた瞬間,???となってしまいました。かなーり,生っぽいのです。焼けるべきところが焼き切れていないので,だからとりわけ脂身のあたりなどはテーブルのナイフではなかなか切れない。
かみさんのほうは,もっと大変です。肉がまともに切れないので,半ばちぎれかけた肉をナイフでいじっています。たぶん私の肉の焼き加減は,これでも「ミディアム」なのでしょう。かみさんは明確に「レア」と注文したために,明確な「レア」状態の肉がやってきてしまった。
そこからはかみさん,文句ぶーぶーです。私のほうにしても,なかなか切れない半生肉に四苦八苦。おそらくこのお肉,火入れの加減さえしっかりしてくれればそれなりに楽しめる品質のもの。「いきなり」で出てくるような歯ごたえばかりで味のしない肉ではないように思われます。
しかし,そんなことを言っても後の祭り。プロにお任せすれば失敗はないだろうという安心感が崩れ落ちていったのでありました。
その後しばらくして,あの店の評判ってどうなんだろうと食べログを見てみたら,「移転・閉店」の表示。まあ,そんなものかなと思ってしまいました。
いまでもお台場のほうに系列店があるようですが(ここまで書くとちょっと調べればなんてお店なのかわかってしまうような気がしますが),おそらくまた訪れるということはないでしょう。
皆さんも,肉の焼き加減にはお気をつけあれ。
ではでは。
西洋近代美術(主に絵画)の歴史⑤19世紀その2(2回目)
こんにちは。
・マネ(承前)
前回の続きです。
②「オランピア」
この作品も,ティツィアーノの作品をお手本にしていることは明らかです。しかし,前回お話したのと同じ理由で,この作品も「おげれつ」とされます。
つまり,女性がミュールをはいていたり,奥の黒人女性が明らかに召使であったり,というのが「リアルすぎる」と思われたわけです。
ただ,この「オランピア」の女性も,「草上の昼食」の女性も,男を誘うような表情ではありません。吹き出しをつければ「別に・・・」とか言っていそうです。
でも,あからさますぎて当時の世間では受け入れられなかったんですね,これも,21世紀の今で考えれば,夜のお店のおねいさんの写真を「アート」として見せられたような感覚,というようなもんなんでしょうか。
ちなみに,マネの作品が世の人たちをぎょっとさせたのは,何も画題だけではありません。これまでに絵画は,非常に繊細なタッチで重ね塗りを繰り返しながら描かれるか,あるいは非常に力強いタッチで劇的な印象を与えるか,雑な言い方ですがその2通りです。
しかしマネは「べたっ」と描いた。この「べた塗り」が与える色彩の印象が,当時の人々にとっては違和感をおぼえる(簡単に言えば,キモい)ものであったようです。
・モネ
当時のフランスでも「紛らわしい」と言われたマネとモネ(アルファベットでも1字違い)。
マネはマネでいろんな作品があるわけですが,「印象派」としてのマネに関して言えば,先述の「印象・日の出」をはじめとしつつ,とりわけ晩年の「睡蓮」の連作がシロート的には知られているのではないでしょうか。最近も上野の西洋美術館で「幻の『睡蓮』」が修復士たちとAIの力で復活されたということで展覧会が開かれていましたし,そもそも西洋美術館の常設展では松方コレクションの一つとしての「睡蓮」を見ることができます。
このようなモネの連作に大きくかかわったのが,「チューブ入りの絵の具」であったことはよく知られています。それまで画家は,アトリエつまり室内にてパレットの上に色を作り,それをカンバスにおいていたわけですが,今我々が知るような絵の具が登場することによって,室外にイーゼルをもって言ってその場で描くということが可能になったのです。
この革新は,描く対象が画家(モネ自身)に対して瞬間瞬間に見せる「印象」を描くことにこだわるモネにとってうってつけでした。
「睡蓮」の数々を見ても,水面に反射する光,水面下の水の揺蕩い,池に差し込む日差しの加減といった情景からモネが感じたものが描かれている,と言ったらかっこよすぎでしょうか。
ただ,まんざら気負いすぎた表現というわけでもないと思うのです。それまでの絵画は,「何を」描くのかが中心でした。しかし,印象派以降は,「誰が」描いたのか,画家の感性がそのまま前面に出てくるようになったのですから。
そういった意味では,マネおよびモネの創作活動は,絵描きという存在そのもののありようを変えた,といえるのかもしれません。
(余談)ジャポニスム
19世紀の半ばといえば,日本も開国と維新を迎えようとするご時世です。ヨーロッパにも日本製の陶磁器が渡ってきたりしますが,その包み紙なり緩衝材として使われた反故紙ににわかに注目が集まりました。浮世絵です。
おりしも,ヨーロッパ世界の(政治的,あるいは意識の面での)拡大に伴い,オリエンタリズムとのちに呼ばれる感覚も広まっていました。
ただ,日本の美術がヨーロッパに影響を与えたのは単なる異国情緒というにとどまりません。
言われてみればなるほどと思うのですが,大和絵だのなんだのといった日本の絵画には,遠近感というものがない,したがって非常に平板というか,平面的な画面になっているのですね。そこがヨーロッパ人にとって斬新だった。
また,葛飾北斎のような天才の存在も重要です。「富嶽三十六景」の「神奈川沖浪裏」に代表されるような,大胆かつ印象的な構図。「凱風快晴」において,朝日が山肌にあたっていく様を絶妙なグラデーションで表現する色使い,こういったがそれまでの西洋絵画の「常識」をひっくり返すことになるんですね。
そんなわけで,マネがインチキなニッポン的なものをわざわざ描いてみたり,ゴッホが広重の絵を模写してみたり,クリムトに至ってはわざわざ(ふつうはタブーである)金色を用いて日本絵画の装飾性まで吸収してみたり,ということが起こってくるわけです。
本題ではないので,ここらへんにしておきますが。
なんだか気が付いたらほどほどの分量になってしまいました。
ここいらで区切りましょう。
では。
これで商売なのか,グルメ評論。
こんにちは。
世間では新型ウィルスの影響が大変なことになっていて,皆さんの身の回りでもやれ紙がない,水がない,コメがないとか多かれ少なかれ影響が出ていることかと思います。
以前ちょっと買い占めのことについて触れましたが,勘弁していただきたいですね。
さて,先日もグルメライターって何だろうというような愚痴をこぼしてみましたが,またぞろ「なんだかなあ」というのを見つけてしまったのでそんな話を。
ご登場いただくのは,東京ダウンタウンにアイデンティティを持つ,いわゆる料理研究家の大御所といわれる,マスヒロさんです。
私,朝は身支度しながらラジオをかけていたりするのですが,そこでもときどき登場しますね。
で,マスヒロさん,旅関係のwebマガジンの企画で月に1遍くらい記事を上げているのですが,こないだはフランスに行ったようです。目的地は,長年ミシュラン三つ星をとった経験を持つ,マルク・ヴェイラ(ヴェラ)の経営するオーベルジュ。この人,先ごろのミシュランで二つ星に落とされたのに反応して,ミシュランを訴えたことで話題になっていた人でしたね(というワイドショーネタを見るまでこの人のことなんて知りませんでしたが)。
まあ,美しいところで,マスヒロさんもすっかりご満悦,フォアグラやら鹿肉やらを堪能されたようです。
当然,ヴェイラシェフとのやり取りもあり,1泊していったとの頃でしたが,問題はそのあと。
日本に帰ってきてから携帯の電源をつけると,TV出演の依頼があり,話題は,ヴェイラシェフの訴えが退けられた件について,とのこと。マスヒロさんが「3日前に行ってきた」というと,TV局側はとてもびっくりして「鳥肌が立ちました!」と返したんだとか。
(できすぎてないか?)
と思ってしまうのは,私だけでしょうか。
さらに番組では,
「料理をはじめ、すべてにおいて、3つ星に値する店です」とヴェラさんを擁護したのは言うまでもありません。ミシュランを訴えた勇気と、賠償金1ユーロと言うマルク・ヴェラに敬意を払います。
ということだったそうですが,その直後には
ちなみに、1月27日、フランスでミシュランの2020年版の発表がありました。マニゴの「マルク・ヴェラ」は2つ星のままです。削除しなかったミシュランも立派ですね。
「どっちの肩を持つんじゃい!」と思わず突っ込んでしまいたくなる記事,願わくば,マスヒロさん本人ではなく間抜けなゴーストが間違えたくらいにしていただきたいものです。
これで仕事になるんだから,ほんとにうらやましいですね(ちなみにこれはいつものように「経費で落として」いるんでしょうか?)。
では。
西洋近代美術(主に絵画)の歴史⑤19世紀その2(1回目)
こんにちは。
今回は19世紀の美術についてその2ということで,印象派の登場のあたりを綴ってみようと思います。
1.印象派の登場
・マネ
「印象派」の名前の由来はモネの「印象・日の出」から来ていることは皆さんご存知だと思いますが,モネに先立って,絵画の世界に一石を投じたのがマネです。
といってもマネは,奇抜な絵を描いて世間の耳目を集めようとしたのではなく,過去の傑作をお手本に,それを現代風に解釈しただけなのですが,その「解釈」の仕方が当時の人々には受け入れ難かったのですね。
具体的に見ていきましょう。
①「草上の昼食」
この作品は,ティツィアーノ(当時はジョルジョーネの作とされていましたが)の「田園の奏楽」をモチーフにしたものとされています。マネの絵では,木陰で語り合う男たちがきちんとした服装をしているのに対し,手前にいてこっちを見ている女性は何も身に着けていません。このスタイル自体は,ティツィアーノの作品も同様です。しかし,ティツィアーノの作品はマルなのに対し,マネの作品はとんでもなく駄目だしされました。
何が違うのでしょうか。
問題は,それぞれの絵に描かれている女性が何者か,ということなんですね。
ティツィアーノの絵に描かれている女性たちの体には一応布切れのようなものがまとわりついていますが,「服」ではなさそうです。そんな女性がすぐ側にいるにも関わらず,男たちは彼女たちの存在に気づいていないように見えます。
対してマネの絵ではどうか。こちらでも男たちの目線は女性に向いてはいません。しかし,画面手前に,女性の服らしきものが捨て置かれています。つまり,この女性は「意図的に服を脱いだ状態で」男たちのそばにいるんですね。
このことから何が言えるのか。神様は,人間の目には見えません。ティツィアーノの絵の中の男たちが女性たちに気づいていないのはまさにそのためで,要はこの女性たちは「女神」なんですね。本来人間には見えていないはずの女神たちだから,服を着ていないんです。
一方でマネの絵の女性は,明らかに「人間」です。女性の衣服の存在がそのことを示しています。ということは,この絵は,どこぞの公園(?)で,男2人が裸の女性を前にしながら談笑している姿を描いたものということになります。
これがまずいんですね。そりゃそうでしょう。例えば代々木公園の片隅で,こんなグループがいたとしたら,間違いなくお縄です。
そんなわけでこの作品は当時のサロン(官展)で落選とされます。なお,この年(1863年)のサロンは非常に選考が厳しかったとされ,落選作も多くあったことから,ナポレオン3世は「落選展」を開きますが,やはりここでも物議をかもしてしまいます。
現代でも,例えば宮沢〇えの「あの」写真集(キシン・シ〇ヤマ撮影のあれ)が児童なんちゃらにあたるのかとかいう議論があったりしました,その時にも「絵画ならいい」というわかるようなわからないような理屈があったりして,決着はつかないですね。ともかく,少なくともこの絵は,当時においては「美しい」とみられるよりも「やらしい」ととられたようです。
ただ,これで話は終わりません。「草上の昼食」が落選した年のサロンで,優秀とされたカバネルの「ヴィーナスの誕生」。えーとですね,個人的には,こっちのほうがアレだと思うんですけれど…。でも,海の上に寝転がることができる人間はいないわけで,周りに天使もいるし,だからこの絵は「女神」を描いたことになっているんですね。
どうなんでしょう。
さて,ほんとうはこの部分を1回で終わらせるつもりだったのですが,つい筆が(指が?)滑ってしまって長くなりました。いったんここで区切りましょう。
続きます。
西洋近代美術(主に絵画)の歴史⑤19世紀その1
こんにちは。
しばらくこのシリーズも間隔が空いてしまいましたが,もうちょっとがんばります。お付き合いいただければ幸いです。
1.ロマン主義
さてそろそろ,時代も19世紀に入ってまいります。ときはフランスで大革命が起こるころ。思想的にはそれまでの啓蒙思想の蓄積が革命とともに一気に広まっていくわけですが,理性を最も重んじる思想=合理性が普遍的な価値観として,ナポレレオンとともにヨーロッパ全体に広まっていく一方,それまで抑圧されてきた個人の感情などを重視する思潮が次第に強まってきました。恋愛とか情念,個別の民族が持つ歴史に重きを置く考え方,ざっくり言えばそれがロマン主義(ロマン派)です。
そういった背景から生まれたスタイルなので,ドラマティックな作品が多いように思います。
美術の世界だけでなく,文学・音楽など,様々な分野にわたってアーティストが現れました。
で,美術の話に絞ると,ロマン派の画家といえば,やはりまずドラクロワが挙げられるのではないでしょうか。彼の作品としては,次のものが有名ですね。
・「シオ(キオス島)の虐殺」
:このころ起こったギリシア独立戦争にインスパイアされて描かれた作品。この戦争ではイギリスのバイロン卿が義勇軍に参加したりと,何かとロマン派が関わります。
・「民衆を導く自由の女神」
:こっちはフランス七月革命の「栄光の3日間」を描いたものとして有名,というより,どうしても下世話な視点で見てしまいますごめんなさい。
スペインではゴヤが現れますね。たいてい有名どころはプラド美術館に収蔵されています。
・「5月3日」
:いわゆる「スペイン反乱(半島戦争)」でのフランス軍の圧制に対するゴヤの告発の絵。左側にいる,今にも処刑されようとしている人物にスポットが当たっていますが,この人が両腕を大きく左右に開いていること,そして手のひらに何かのしるしがあることにご注目。イエスになぞらえているんですね。高校生にはぜひ知っておいていただきたい。
:どちらも有名な作品ですね。よい子は見ちゃいけない(?)作品です。
ほか,ロマン派の画家としては,山下達郎「ターナーの汽罐車」の元ネタになった,ターナーの「雨,蒸気,速度」なんてのもありますかね。
2.自然主義・写実主義
19世紀の半ばくらいから後半にかけて,ロマン派の盛り上がりが失せていくのに対し,自然主義とか写実主義とかいった流れが現れます。
・自然主義
「自然物の持つ美しさ」を描く,と言われますが,美術の世界に興味がある人からすれば,歴史の教科書的に「自然主義」と呼んでいるのは,バルビゾン派を指すと考えてよいかと。ここでは「自然主義」といえばミレーの名前を思えといていただければよろしいかと思います。
ミレーといえばビスケットではなくて(おいしいですよね),「落ち穂拾い」「種蒔く人」「晩鐘」といった,農民の素朴な生活を描いた作品が有名ですね。
例えば「種蒔く人」はゴッホの模写でも知られますし,岩波書店のマークにも使われていますし,「晩鐘」では遠くからかすかに響いてくる協会の鐘の音が聞こえるような気がします。
ほかにこの手のスタイルで知られる人といえば・・・コローとかでしょうか。
※ミレーといえば,「オフィーリア」で知られる人もありますが,もちろん別の人です。そちらはラファエル前派の人。
・写実主義
対象をありのままに描く,リアリズムの手法を旨とするスタイルです。たいてい,教科書等ではクールベの「石割り」が代表作としてあげられているかと思います。第二次大戦中のドレスデン爆撃で消失したというこの作品,私は正直なところ,なんとも思わなかったと言うか,これのどこが「写実主義」なのか理解できなかったのですが,長じてクールベについて調べてみると,なるほどリアルだ,と思わざるを得ませんでした。
何がどうリアルなのか?自分で調べてみてください。
次回は印象派についてです。
では。
グルメ評論家ってお金持ちなの?
こんにちは。
まだまだ寒い日があったりもしますが(こないだ雪も降ったし),とはいえだんだん暖かくなってまいりました。
今日の投稿もリハビリみたいなもので,日頃のふとした疑問です。
ふだん私,外食はほとんどしないのですが,とはいえ美味しそうな料理の話は好きで,魯山人のろくでもない理屈を読んだり,ブリア=サヴァランのろくでもない駄話を眺めたりすることがあります。
世にグルメライターと呼ばれる人もあり,そういった人々のブログなんてのも,ちょいちょい見るのも楽しみです。
さてそんな中で,ある辛口評論家が批判していることなのですが,こういったグルメライターと呼ばれる方々,どんだけお金持ちなんでしょうか。
何しろ毎日のように鮨屋やら料亭やらリストランテやらで食事しているのをアップしているのを見ていると,これ,ほんとに自腹で食べているんだったら,とんでもなくお金持ちだと思わざるをえません。
例えば,関西方面の有名なグルメライターの人の投稿を眺めていると,ある1週間で5回も外食(しかもディナー),そのぞれぞれのお店を食べログで調べてみると,最低でも1万円以上,下手すると25000円コース一本というところもあったりします。もちろん,店名も含めて,料理の写真なども公開している記事であるため,たぶんわざわざ一番安いコースなどは頼まないでしょう。と,すると,夕食だけの出費で,1週間で7~8万円。1カ月で30万前後。
なんぼ食べるのが大好きでも,ここまでできる人っているものなんでしょうか。
文を見る限り,お店の人とも顔見知りだったりすることが多いようで,しっかりとしたサーヴィスを受けているご様子。なんかあるんじゃないの,と思ってしまうのは,下種の勘繰りなのでありましょうか。
もちろん,すべての料理について「新鮮だ」「気分が上がる」「絶妙だ」と絶賛。
・・・・・・。
そんなにヴォキャブラリーも豊富とは思えない。
ま,いいんですけれどね。
試しに,私の昨日の晩飯,この人風に紹介してみましょうか。
・小松菜と油揚げの味噌汁
(写真)
まだ冷える日に,芯から温まる一品。
・揚げ出し豆腐
(写真)
添えられた揚げ茄子に沁みた出汁に舌が奪われる。
・焼魚 鯵
(写真)
火入れが絶妙。
・ご飯
(写真)
すべての料理を受け止める。
何気ない食材を逸品にする,料理人の心意気を感じる一夜であった。
こんな感じの文(文章とは言えない)で,ウニだアワビだステーキだといった美味いものを毎日口にできる世界,私も経験したいものです。
では。
西洋近代美術(主に絵画)の歴史④新古典主義
こんにちは。
さてさてこの続き物,今日も綴っていきたいと思います。
④新古典主義(あるいは単に古典主義とも)
フランス革命の直前くらいから,啓蒙思想の普及も相まって絵画の世界にも理性と調和が再び脚光を浴びるようになり,フランス宮廷の美術の風潮はそれまでのロココに代わって,ルネサンス様式を範とする古典主義が再び現れます。今どきの言葉で言えば,「一周回った」というところでしょうか。
ただ,古典派の画家で代表選手を挙げよと言われれば,革命後の混乱の中で権力を握ったナポレオンのお抱え画家だったダヴィド(とその弟子のアングル)になるのはないでしょうか。基本的に,革命の時期の絵画やナポレオンの肖像画などはダヴィドのものと考えて結構です。
有名なものだけ挙げても・・・
・「アルプスを越えるナポレオン」(白い馬に乗っているやつ)
・「マラーの死」(入浴中のマラーがシャルロット・コルデに殺されたシーン)
・「ナポレオンの戴冠式」(ナポレオンが冠を受けるのではなく,ナポレオン自身が妻ジョゼフィーヌに戴冠させる場面)
などなど,この時期の絵が出てきて「作者は誰か」と聞かれたら迷わずダヴィドと答えて間違いはありません。
19世紀に入ってくると,美術が次第に大衆化していくのに伴い,さまざまな美術潮流が現れてきます。ただ,権威あるサロン(官展)はクラシカルなスタイルこそ正統という立場をとったため,のちにマネが苦戦するような状況も生まれてきます。
なお,ダヴィド,アングルの作品として,こんなあたりも触れておいたほうがよろしいでしょうか(おまけ)
:ブリア=サヴァランのろくでもないエッセイ『美味礼賛』にも登場する,当時の社交界の花形の存在。
・アングル「グランド・オダリスク」
:これもティツィアーノ「ウルビーノのヴィーナス」に通ずるものなのでしょうか。
・ジェローム「カエサルとクレオパトラ」 :これ,教科書などでは「修正」が入っています(それに気づいた私も私ですが)。
続きます。