ゆでガエルはゆだりながら日記

ゆだりきったら左様なら。

「プロ意識」とアマチュアリズム

こんにちは。

 

 まーた更新に間があいてしまいました。ごめんなさい。

 

さて今日の話題なのですが,テーマはそんなこんなで「お仕事」です。

 お仕事をされている方であれば誰しも思うところだと思うのですが,職業上のお仕事というものはお金を頂戴することとかかわる以上,課せられたタスクに関して半端なことはできません。

それ以上に,非常に高度な内容であるにもかかわらずより高いレベルを目指して専心する職人さんであったりとか,災害時などで自らの命も危険にさらされながらも救助や復旧活動を行う方々など,本当に頭の下がる思いがします。

 そういった仕事はその人の「プロ意識」のなせる業なのでしょう。

 

 ただ一方で,私,「プロ意識」なるものにちょっと疑問を持っていたりもします。

 どんな職業にも当てはまるとは言いませんが,たいていの場合,そこまで緊張感をもって仕事をしなければならないのは,ごく限られた場面だけです。「常在戦場」などという言葉もありますが,人間,常に緊張した状態で過ごすことはできませんし,むしろ緊張状態が続けば普通の人は疲れ切って,病んでしまうこともあるでしょう。

 

でも,そもそも我々が自分の仕事を選んだ時,もちろんそれは単発のバイトではなくて(ちょっと大げさな言い方ですが)自分の人生をかけてみたいと思える仕事についてですが,やはりその時私たちはその仕事に対して強い魅力を感じたはずです。仕事からくる負担やプレッシャーは覚悟しつつも,それを補って余りあるやりがいを求めて,その仕事に就いたのではないでしょうか。

もっと有り体に申せば,自分にとっての好きなことを,社会に役立てるような形で追い求めたい,私はそう思いました。

 

仕事ですから,常に楽しいことばかりではないし,むしろやりたいことができる場面など,そう多くはありません。しかし「仕事だから」でやらねばならないことしかないのだとしたら,よほど収入面で恵まれた職業でない限り,どこかでぽっきり折れてしまうでしょう。だから限られた「やりたいことができるとき」には,全力で業務に取り組みたい。なるべく面白い工夫を組み込みたいし,温めていたアイディアを試してみたい。

 

 けれどここで,組織が「待った」をかけることがあるのが,お仕事あるあるなのではないでしょうか。

 

個人でお仕事されている方はともかく,組織の中で働いていらっしゃる方も多いと思います。そして組織には組織の論理があります。個人がその論理を逸脱することは,多くの組織では好まれません。ただ,この論理も,決して我々の嫌がらせのために生まれたものではない。組織が組織として活動を維持していくために生み出された,いわば生活の知恵のようなものです。組織の論理があるからこそ,組織が「あるべき姿」としての仕事を生み出し,維持していくことができる。

※この点,小坂井敏晶さんの『社会心理学講義』という本をぜひお読みいただきたい。というより,この人の著作自体,いろんな側面があって個人的にはすごく面白いと思っているのですが。

 

だけれども,やはり組織は「個人あってのもの」という側面を持つものです。「個人あっての組織」なのか「組織あっての個人」なのかは,経験や立場などで見方も変わるでしょうけれど,しかし個人の存在を無視できないのが組織である,ということは否定できないはずです。

 

 私は,自分の仕事がルーチンワークに終わってしまうのがもったいないと思ってしまう性分なので,一応お仕事の範囲内で,ちょっとした「遊び」を混ぜ込むことがあります。具体的に何とは申せませんが,ふとした思い付きを生かせないか,まあ「実験」です。仕事を戦いと思っている人には怒られてしまうかもしれませんが,私の仕事の場合には,状況や環境が目まぐるしく変わっていく中で,何が「正しい」のかもわからない以上,こうした小さな試みが案外大事なのではないかと思っています。

 

「プロ」であることにこだわって,遊びがないのは,息苦しいですものね。